隣り合う背中
会社から家へと戻る夜道。いつものようにイヤフォンを耳に差し込み、馴染みの曲をループ再生していた。
道端の自販機で少しだけ贅沢な缶コーヒーを買う。が、何口か飲んだ後、なぜかいつもほどの味わいを感じなかった。
マンションのエレベーターで、ふと腕時計を見たら、時間が止まっている。振ってみてもピクリとも動かない。
電池切れかもしれないが、
「こんなタイミングで止まらなくてもいいのに」
そう呟いた自分の声がやけに耳に残った。
自宅のドアを開けると妙にひんやりしていて、夏の夜にしては冷えすぎる。リビングの灯りをつけると、床に小さく何かが散っているのが見えた。最初は見慣れない落ち葉かと思った。が、近づくとそれは真っ赤なチューリップの花びら。
チューリップを買った記憶なんてない。
少し首をかしげたまま、花びらを拾い集める。掌に載せると、まるで生きているようにわずかに震えたような気さえした。
台所へ向かうとシンクの下から水滴の音がする。ぽた、ぽた、ぽた――。
それもおかしい。今朝までは何も漏れていなかったはずだ。シンクを覗き込むと水ではなく、黒ずんだ液体がゆっくりと垂れている。思わず嫌な予感が走る。
そのとき、スマホの通知が一斉に鳴り出した。なぜか数時間ぶんのメッセージがいっきに届いたらしい。「電話に出て」「大丈夫?」「連絡して」――友人や同僚からの心配の言葉が画面を埋め尽くしていく。
一通だけ見覚えのない番号からのメッセージがあった。
「見たの? 隣りにいた人を」
隣り? 誰のことだろう。通勤電車、カフェ、それともエレベーター?
頭の中がざわつく。
ふと、今夜の帰り道を思い返してみる。駅を出て、いつもの道を歩いて、自販機で缶コーヒーを買って。エレベーターに乗ったとき、自分のすぐ後ろに誰かが乗ってこようとする気配がしたような気がする。しかしドアが閉まったとき、その人の姿は見えなかった。
「俺の背中にくっついていたのは、いったい誰だ――?」
再びスマホを見つめると、メッセージが増えている。
「あなたは思い出すべきです」
「部屋のどこかに、落ちていますから」
そのとき、リビングの奥で何かが倒れる音がした。胸がドクンとする。そっと足を踏み入れると、カーペットに点々と落ちた赤い染みと花びらが、まるで道しるべのように続いていた。先には大型の鏡が置いてある。
薄暗い鏡の中に映った自分の姿。それから、その自分の背後に、輪郭がぼやけたもう一人の影。
声にならない悲鳴が喉元をこじ開けるように沸き上がる。鏡の向こうの影は、すぐにスーッと床に溶け込んで、消えた。
瞬間、頭の奥で何かが砕けるように理解した。
「今朝、あの人を……」
記憶の断片が熱を伴って脳内をえぐる。
ひどい口論。怒鳴り声と泣き声。
そしてテーブルにあった花瓶が倒れる衝撃音――あれはチューリップが挿してあった花瓶だった。床には割れたガラスと血。横たわる彼女。思わず逃げだした自分。
そうだ。自分は“何もなかった”ことにして会社へ行き、そのまま普通の顔をして帰ってきたのだ。
隣り合っていたはずの彼女の背中を、一瞬で切り離すようにして。
台所のシンク下を伝う黒ずんだ液体は、血が混じった水だったんだ。
それを見ないふりをして、ただ日常に戻りたかった。
でも、戻れるはずなどない。
部屋の隅から、再び鏡がきしむような音を立てる。
何もないはずの空間から、ガラス片が擦れるような、“こすっ”という低い音が聞こえる。
イヤフォンから流れていた曲が、急に途切れた。まるで世界が黙りこむように。
耳の奥に残るのは、心臓の鼓動だけ。
そして、はっきりと誰かが叫ぶ声――自分のものかもしれない――が、鏡の向こうから聴こえた。
「あなたは、まだ隣りにいる」
その声は、確かに泣いていた。