残された鍵盤

Update 2024.12.21

残された鍵盤

夕暮れの色が少しずつ深くなっていく頃、わたしは母の遺品を引き取りに古い音楽堂を訪れた。そこは母が若い頃、ピアノ講師として使っていた場所で、閉鎖後は十年ほど放置されているという。正面の扉には大きな鎖がかかっていたが、裏手の管理人室だけが半開きになっていた。

「おや、ずいぶん遅かったですね」

中から出てきた痩せぎすの管理人は、右手に銀色の指輪をはめていた。見覚えのある模様が刻まれている気がして、なぜか目が離せない。母の手元にあった指輪とどこか似ているのだ。会ったばかりだというのに、彼はまるでわたしを昔から知っているかのような口ぶりで話しかけてくる。

「あなたが来るのを待っていましたよ。鍵はしっかりかかっていますが、中なら自由に見て構いません。お母様の物も、きっとまだそのままですよ」

音楽堂は大きなホールと、いくつもの小部屋が連なっている。廊下の壁紙はところどころ剥がれ、割れた窓ガラスから入り込んだ風が湿った埃を巻き上げていた。

わたしは管理人の後ろをついて歩き、最奥のステージへ向かう。そこには脚が折れた黒いグランドピアノが残っていた。かつて母が弾いていたはずの姿を想像すると、胸がざわつく。

「あなたのお母様は、ここでたくさんの生徒に教えていました。最後まで、とても熱心でしたよ」

そう言いながら管理人はステージに近づき、ピアノの蓋をそっと開ける。中には黄ばんだ楽譜と、傷んだ布切れのようなものが挟まっていた。母が愛用していた譜面袋らしい。わたしはそれを抱えようと手を伸ばしたが、何かがピアノの下から小さく光っているのが目に留まった。しゃがみこんで覗き込むと、埃をかぶった木製の小箱が隠されている。まるで誰かの手でそっと置かれたように、静かにそこにあった。

「開けてみましょうか」

管理人が差し出す懐中電灯を頼りに鍵穴を探す。けれど鍵は見当たらない。ふと母の日記を思い出した。わたしはこの音楽堂に来る直前、母の古いノートを鞄に入れてきたはずだ。あのノートの留め具が、箱の鍵に似ている。ためしに留め具を合わせると、驚くほどスムーズに合致して箱の蓋が持ち上がる。

中には数枚の紙と、一枚の写真が丁寧にしまわれていた。写真には若い頃の母と、わたしによく似た面差しの男性が並んで写っている。視線を凝らすと、二人の右手薬指には同じ銀色の指輪が光っていた。

「あなたには、お父上のことをお話ししていなかったと聞いています」

管理人が低い声で言った。その指輪をかざしてみせると、写真の男性がつけているものと同じ模様がはっきりわかった。

幼いころから父の存在を知らずに育ったわたしは、思わずその写真に視線を戻す。男性の笑顔はどこか憂いを帯びていて、母の肩をかすかに支えている。

「嵐の夜、彼は行方を絶ったそうです。事故に遭ったのか、何があったのか、長らくわからなかった……」

管理人はそう呟き、静かに眼鏡を外した。彼の素顔は、写真の男性と驚くほどよく似ている。言葉を失ったわたしを見つめ、ゆっくりとまぶたを下ろす。

「あなたが生まれた日に私は遠くへ流され、記憶も名前も失ってしまった。でも、こうして音楽堂を守っているうちに……ほんの少しずつ、過去が頭をかすめるようになりました。これをあなたに渡す日が、いつか来るのではないかと思っていたんです」

そう言いながら管理人は自分の指輪を外して、わたしの手のひらに重ねる。

何もかもが一度に繋がったように感じて、思わず息を呑んだ。父を知らないまま育ったはずのわたしは、ずっとここに戻って来る運命だったのかもしれない。母と同じ指輪をはめた、この“管理人”こそが、本当の父だったのだ。

「あなたが大きくなって、ここに来てくれると信じていました。母上も、きっと同じ思いだったのでしょう」

ピアノの上で揺れる懐中電灯の光が、父の手元とわたしの涙を照らし出す。いつの間にか夜が訪れているのに、音楽堂の舞台には、消えかけたライトが微かに明かりを残していた。母の愛したこの場所で、わたしは失われた父に再び出会い、そして生きていた家族の証を取り戻したのだ。

静かに箱を閉じ、指輪を握りしめながら振り返ると、朽ちかけたグランドピアノが母の姿のように優しくそこに佇んでいた。

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